昭和45年6月19日 夜の御理解
【入力者: 末永 満】
この方金光大神の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労させんと。苦労はさせんと仰せられるほどしに幸せな(?)ことが出来るというわれるですね。今朝あの御祈念が済んだ後に久富繁雄さん、ごひれいの御用頂きよらんと話しておりましたが、十六の日に(?)。一七の日に全部それを実をとられた。昨日一八日今度、今年(?)。麦やらを(?)。昨日麦やらとってしまわれたというわけです。まぁ順調よう受けられたというんですよね。
ところが、昨日あのご承知のように、朝からおしめであっとりましたから、まぁいうならきあきじゃなかったでしょうけれども、ここでちょうど御用がありましたから、二時間くらいいつもより遅く帰られることになったんですね。とても今日はうちぎんごと、うちげんもんだんがやかしい言いよじゃるもん、ちょこと早う帰ってくれとこう言いちょるかもしれん。まぁ、一生懸命で畑にやらせて頂いたらことがまぁ、一生懸命。
出、丁度これ一緒であの笑わせてしまうと、いうところで(?)終わってから、もう今日はジッチャマ、あなたがあの今日はいつもよかねーち言うてから、ゆっくりしなさ、して頂いたけんで、今日はお湿りちょうど引き終わったら降り出したちうことがおかげを頂きましたち言ってから矢部ごとあのおばあちゃんが言うたってから今朝喜んで話しておりましたが。
もう例えば、そういうおかげを受けられとってもその中間にですね。例えばなら矢部なら矢部なり(?)その(?)がね。例えばどうでしょうか、もう今日ごたるけんでちょい早う帰ってもらえとよかとこう言うて、不平不足をね、言うてもよいようなもんだけれど、私はそういう時にその、家族中の者がね、そういう中にあっても今日ジッチャマがあー、合楽に御用して頂いておるけんおかげを頂きよるというようなその思い方がね、私喜びで開けた道と仰るが、そういう道がもう必ず喜びで開ける道だと思うんですね。
だからいつでもそうありたい。今日もこのさっき田舎の方の教会から、信徒会の役員をしておられる方に電話がかかってきた。それはあの、今月の二八日がある教会で信徒会があるようになっとった。ところがその向こうから教会からみえてきて、末永先生が聞いとりますからですね。あの、まるまる教会からこう電話かかってから、ちょうど田植えの真っ最中なるごたるからお参りが少なわけで、それで合楽に変えても、変わってもらわんと出来んじゃろうかち電話がかかってきたじゃけんですね。
合楽だって(?)教会のどん真ん中のある教会ですからね。あー、私だって同じことばんのだいたい言いたいところだけれどね。けれども、こういうところを日頃成り行きを大事にさせて頂くということ、だから先生方四、五人さっき話したんですけど、それはおかげですけれどもね。やっぱりあのちょいとほんと考えてみるとね、自分方がお参りそのちょうど田植えの沈んで、お参りが少なかごたるなら、合楽だって同じこっちゃろとこうと、まぁ、言うたり思ったりいたし。まぁ、言やしても思やしないようですね、ここの人達は。
もうそれがほんとおかげとこう思うておる。ちょうどその日は別に対したさし使いもないし、霊祭がある御信者さんのお家の霊祭がありようになっとったの、なら夜にしてもらやこてと、私言いましたところ、言いよりましたら、夜ならかえってむこうの都合がよかち言いよなさったとこういうようなおかげなんですね。二八日(?)。
ですから、もうほんとにそういう時のこの受けどころというものがいつもそういうふうに出来ておるとういことが有り難い、どんな場合でもね。同じ連合教会、田舎の教会。今月、自分方当番なんだと。当番なんだからとうじせにゃならんだけども、どもう田植えで忙しいから家は合楽に変わってもらうと出来んじゃろうかと、言うてその、何言うてる。だからそげん思ったるそれを言うてきた。
ここでは家も同じことばいと言うて、受けんでもいいような問題けれどね。ここの場合はそれをいつもそれを黙って受けてきたことですね。そんなくらいなことじゃない、ある場合にはそれこそ血の涙の流れるようなことでも、黙って受けてきた。いや、黙ってじゃない、有り難く受けてきた。それがもう御神意として受けてきた、いわば、喜びで受けてきた。
それが私は合楽がますますおかげを頂いていく土台である、元であるといことですね。今日のような忙しい日にお兄ちゃん早う早う帰ってもらえのに、のにといったような雰囲気ではなくて、お兄ちゃんが神様に打ち向こうておって頂くからおかげを頂いておる、というような頂き方がね、私の一人の心の中だけではない、信心させて頂いておる者は全部はそうです。
家庭でも一人だけじゃない。家族中の者がその気になってくれというようなおかげを頂きゃ、もういよいよおかげを頂く、いうならば、おかげの受け物がね、水も漏らさんおかげの受け物になっていっておる印だというふうに私は思う。全てのことを有り難く受けさせてもらう、全てのことが喜びで頂かせてもらう。喜びで開けて道じゃから喜びでは苦労はさせんと、仰っておられますからね。
ですから教祖様がそして教えて下さったことを、私共は成る程そうだと実証していくところのおかげ。今日も久保山さんがお礼を言われるんです。もう先生、私はこうやって毎日日参させて頂くようになりましたら、第一娘がおかげを頂くようになりました。
先月だった、先月みえた。お勤めに出ておられるところがもの工事ばっかり言うて何とかかんとか言われるから、もう止めると言ってる、言われる。(?)、とにかく毎日金光様にお参りしよるけん、先生にお尋ねしてから止めりゃ、(止めんできんなってしから)あの、ならそげんしようと言うて、お願いにみえました。そしたもうしばらく続けたらよかろということになった。
そしていうならば、人の悪しきは我悪しきであるね。いうならば、その悪く言われるということをそのことを神様が言いござると思って改めていく気持ちになったら、おかげが頂くよというようなことをもっともっと見やすう、確かに御理解頂かれたんでしょうね。ところが、もうそれからしばらくいたしましたら、やはり、家帰ってみえる時にもうにこにことして帰ってみえて、もうほんとにお母さん金光様の言わしゃった通りばいちいうて、最近は喜びさんで勤めにも出るようになりますし、それから給料が安いと何とか言いよりましたけれども、今月はこれだけ沢山これからあげると言うて、言うて頂いたし、もうこの頃はあんたばっかりほどん、こーうもしてから、肥えすぎてちょっとおかしか。肥えすぎたら困かるぜ、そこにじゃまになるわけにもなかろうばってんそう言うて言いなさるそうですもん。
もうそれけん(?)やもりしよったですが、もうこの頃はもうほんとあんた、美しゅうなったよちいうてから、あんたがもう一寸(?)まだよかばってんちいうてから、もうよかごとばーかりしかお伺いなさらんですがねというて、毎日帰ってくるというわけです。信心がない、娘さん。けども母親の信心が本当なこって、いわゆる、喜び全てを受けることになってきたら、娘までがそういううるおうていくんですよね。
それはもうほんとにあの、毎日毎日有り難しごたんという感じですよ、お取次ぎの内容。今日もそげんいうて、もうほんとに、ついにこの頃まではなんとかこう(けちょう)をつけて、腹立たせようというようなもんがあったんですね、その娘さんに対して。向うの奥さんが、あらは、あんなもんですよ。もう否認ばっかり言うわっしゃるとかね。人の悪口ばっかり言うわっしゃるというのは、こちらにやっぱり言われるものがあるとですよ。
最近そげなんなくてから、いわゆる、悪口言ったら、まぁあんたほんとこの頃美しゅうなったよとか、まぁなんとか、とにかくほめる言葉ばっかり。ほめられたりだって気持の悪いものはなか。だから一生懸命仕事も出来る。仕事が出来るというのは、もうあの人も、このままじゃいかんちいうのはしてあげんできんばんのということまでなりかねないのです。なってくるのですよ。
そこに喜びで開けた道じゃから、喜びで道が限りなく開けていくんですよそういう。後から、(?)さんみえておられるですけん、後からゆっくり聞かせて頂きまた。もうその話だけでも、私今日お供させて頂きながらね、娘さんのその話だけでもたいへんなことだな、おかげがうるおうていくということ。ね。
一人がおかげを頂くと一家中が、一家中が信心させてもらっとるなら村中にもうるおうていくようなおかげにもなっていくんですよね。それを私は最近世界中にうるおうていくようなおかげ頂きたいなというとります。どうぞ。